社団法人 東北地域環境計画研究会事務局


公開講演会の紹介
バッタリー村20年のあゆみ
「バッタリー村村長」 木藤古 徳一郎
 岩手県山形村のバッタリー村は今年で開村20年になる。最近では中学生が炭がま造りの体験に来たり、全国各地から大学生が来るなど年間2,000人ほどの方が訪れるようになった。そもそもバッタリー村を開村したのは、地元民が都市の消費者グループやさまざまな人々と出会い、地域の文化を自分なりに見直したことがきっかけだった。

 私は山形村の荷軽部の木藤古集落に生まれた。奥山に「ふるさと」を持つ劣等感を抱いた時期もあり、土地を離れ近郊の町で暮らしていたが、父の病気をきっかけに故郷に戻り、村の人工授精師としての生活を始めた。生家に戻ってからは、製炭業を営んでいた父に、改めて製炭や土地の文化などを学んだ。その間、考えていたのは、この地域、山形村を振興していくためには「炭や作物栽培だけでは立ち行かない、この地に合った畜産業を起こしていかなければならない」。そういう強い思いだった。

 村の基幹産業である農林業の中心的な系統である農協は、そのころ苦しい時代を迎えていた。これまで山村を支えた木炭産業も衰退していき、農協事務所に訪れる人も日ましに減っていった時代だった。私はこれからの村の振興を考えたとき、農協の立て直しがどうしても必要と思い、当時、思いを同じくした農協組合長のもと、再建に取り組むことにした。村の風土に合った新たな畜産として短角牛(岩手短角種)を中心とした農業を展望し、その振興に精力を傾けた。

 初めはなかなか地元農家の理解は得られず苦労が続いた。しかし「先代たちが育てつないできた、この土地の牛を基盤にしていこう」という組合長の理念のもと、これまでの小牛生産の繁殖中心から肥育も併せて行うよう取り組んだ。最初の牛を出荷したのは大阪だった。しかし短角牛にはサシ(脂肪交雑)が少なく、市場での評価は低いものとなった。打撃は大きかったが、その後、東京の「大地の会」という消費者グループとの交流をきっかけに短角牛の産直が新たな転機となった。

 産直を始めた当初、短角牛は行政でも評価が低く、県内では短角牛の処理施設はなく、製品化できなかった。結局、埼玉県の所沢市で製品化し出荷したが、その評価はこれまでの業界のものとは全く異なっていた。「健全な土地で育った健康な牛」として評価されたのだった。

 この産地と消費者との交流は現在も続いている。やがて東京から消費者グループが大型バスで大挙して訪れることとなり、村は大騒ぎとなった。大人数を収容する施設や会場の確保にも手を焼き、どうやって迎えたらいいか頭を抱えた。そのとき父が言った言葉は「ありのままの村を見てもらえばいい」だった。土地の生活、暮らしぶり、文化をそのまま見てもらおう。そこで父に古くから地域に伝わる「バッタリー」を造ってもらった。

 産地交流で訪れたある人が言った。「ここにすむ人は幸せだ。きれいな水と空気、豊かな自然の中で暮らせる」。その人と父の言った言葉が、その後ふるさとで暮らしていく弾みとなった。山村には山村の暮らしがある。村の暮らしを見てもらおう、訪れる人があったなら寄ってもらおう。そういう思いの場所として開いたのがバッタリー村だった。

 現在、バッタリー村は県内の中学生から全国各地の大学の研修を受け入れているほか、今年はJRのグリーンツーリズムのツアー企画「山の学校」が募集されており、県内外から多くの人が訪れる場所となっている。

バッタリー村憲章

◇ 与えられた自然立地を生かし、

◇ この地に住むことに誇りを持ち、

◇ 一人一芸何かを作り、

◇ 都会の後を追い求めず、

◇ 独自の生活文化を伝統の中から創造し、

◇ 集落の共同と和の精神で、

◇ 生き生きとした、新しい生活文化を創造しよう。

(昭和60年7月14日制定)




閉じる