社団法人 東北地域環境計画研究会事務局


公開講演会の紹介
環境性砒素の生体影響
「岩手県立大学盛岡短期大学部生活科学科」 千葉 啓子
 砒素は単体や化合物など様々な形態で自然環境中を循環し、生物圏では食物連鎖によってヒトの体内にも取り込まれる。環境中に高濃度の砒素汚染が存在すると肺、口、皮膚を介して、摂取された砒素が体内に濃縮される。取り込まれた砒素の化学形態、暴露量、暴露期間の違いによって様々な健康障害が発生する。無機砒素は発癌物質でもあり、中毒の場合と違って、微量の暴露でも細胞のDNA傷害を引き起こすことがあるので、これらの様々な生体影響を明確にしたうえで砒素の健康影響評価を確立する必要がある。また、日本人は欧米人に比較して魚貝類や海藻類などの食品に由来する砒素の摂取が多いことから、砒素の健康影響評価において食物を介して経口摂取される砒素量の安全性をどのように評価するかも、また重要かつ早急に解決すべき課題である。

 本報告は環境水や食品中砒素の化学形態別の濃度や摂取量を明らかにし、それらの体内蓄積や排泄パターンの解析を通して砒素の生体影響の解明を目的とした研究の一端を紹介するものである。砒素に関するこれまでの知見をもとに、海産物を多食する食習慣をもつ人々の砒素摂取状況の把握とその生体影響を検討した。また、東北北部で一部の井戸水、温泉水、鉱山廃水から高濃度の五価の無機砒素が検出されているので、今回の調査では砒素を成分として含む温泉地に居住し、この温泉水を長期間、日常的に利用している人々を対象に砒素の体内蓄積などの生体影響、飲泉習慣の有無についても検討した。このような日常生活中の砒素暴露、言い換えれば潜在的な砒素暴露の実態と生体影響の関係についてはほとんど研究されておらず、本研究においてこれらの点が解明できれば意義深いと考える。

 岩手県南の沿岸地域に位置し、ウニやアワビ、ワカメ・コンブの養殖漁業を基幹産業としている地域住民を対象にした調査から、食生活において海産物に依存する割合が高く、魚貝類および小魚類の1日摂取量の平均は151±86g、海藻類は4±7gで、魚貝・小魚については日本人の一般的な摂取量に比較して2〜3倍以上であった。対象者の尿中から4形態の砒素が検出された。尿中砒素濃度は全ての化学形態で全国248名の値に比較して極めて高値を示し、とくにDNA濃度とTMA濃度が有意に高く、5〜6倍の値を示した対象者が多かった。これまでの研究で尿中TMAは魚貝類として摂取されたアルセノベタインそのものであることが明らかにされていること、さらに食事調査でも同対象者群では魚貝類摂取量が極めて多いことが尿中砒素の解析結果を裏付けていると考える。

 一方、岩手・秋田両県の湯治場として古くから利用されている温泉地に居住する人々を対象とした調査では、この温泉水は岩手県衛生研究所の『県内の温泉に関する調査』によると砒素含有量は県内の温泉の中では比較的高く、測定年度により多少変動はみられるものの、定期検査では0.3〜0.5mg/kgの砒素が検出されている。今回の測定においても0.5mg/kg前後であった。対象者は共同温泉か、源泉湧出口から直接自宅浴槽に温泉水をひいて入浴し、洗濯などの生活水として温泉水を使用しているが、飲泉習慣があると回答した対象者はいなかった。対象者の尿からは4形態の砒素が検出され、尿中砒素の化学形態や量に温泉水中の砒素の影響と考えられる現象は認められなかった。

 次に毛髪中砒素の化学形態別濃度を検討した。海産物多食者および温泉水利用者の毛髪からはiAs、DMAの2形態の砒素が検出された。生体試料中砒素に関する既存の報告では、一般的にMAとTMAは毛髪からは検出されていない。海産物多食者群のiAs、DMAとも対照群の値に比較してやや高い傾向にあった。毛髪は砒素の排泄経路あるいは蓄積器官と考えられているが、今回のように、魚貝類など砒素が多く含まれる食品を多食する習慣がTMAの体内蓄積をもたらすのではないかという点が懸念された。過剰なTMAが体内蓄積するか否かは日本人にとって食物由来の砒素の安全性を考えていく上で重要な意味をもつ。

 今回男女とも尿中に大量に検出されたTMAは毛髪からは検出されず、毛髪中砒素の化学形態に関する従来の知見と一致していたことから、TMAは多量摂取しても残留性が少なく、体内蓄積されないことが示唆された。尿中砒素濃度、とくにTMA濃度と毛髪中砒素濃度との相関関係について検討したが、尿中TMA濃度は毛髪中のいずれの形態の砒素濃度とも関連は認められず、TMAに残留性がないことが支持された。本研究から得られた成果は飲食物を介した経口的砒素暴露レベルの重要な知見となるものと考える。一方、温泉水利用者の毛髪から検出された2形態の砒素のうち、iAs濃度は男女とも海産物多食者、都市部居住者の値に比較して最も高く、有意に高値を示した。また、女に比べて男で高かった。しかし、温泉利用者では尿中iAs濃度にほとんど変動は認められず、毛髪中砒素が単独で上昇した理由として、飲泉などによる経口摂取からの毛髪への蓄積ではなく、温泉水中に含まれていたiAsが毛髪に外部付着した可能性が強いと推測される。我々の生活環境中に様々な形態で存在する砒素が食事、入浴などの生活習慣のなかで潜在的に生体に暴露されている実態の一部が明らかにされた。



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